ダメな吹き替えを語るより、良い吹き替えを教えて欲しい

メン・イン・ブラック最新作にて、アイドルが吹き替えを行うことが契機になったのか、「声優としては」素人の人たちが吹き替えを行うことが批判の対象となっている。
news.livedoor.com
最近だと「シャザム!」とかが顕著だが、吹き替えを安直な宣伝の道具としている感も批判の対象となっているようだ。
togetter.com


こうした吹き替えキャスト関連は、度々炎上しているわけだが、どこか不毛でもある。
と、いうのも、下手くそな吹き替えを批判するような映画ファンは、そもそも吹き替え自体を観ないのだ。彼らの大抵は字幕派であり、場合によっては吹き替えそのものを「原典に手を加えた紛い物」として見ているフシがある。

で、あるならば、配給元としては、口は煩いが吹き替えそのものに興味が無い層は放っておいて、演技とかよくわからないし気にしないが、話題性には敏感な層にアピールできるキャスティングになるんじゃないかなあ、と思ってしまう。

こうして、吹き替えは地雷と化し、映画ファンはますます字幕しか観なくなり、アニメ映画とかも含めて質の悪いキャストがはびこるようになってしまう。
いやもう、吹き替えを観る場合、いちいち声優のキャストをチェックしないといけないというのはめんどくさ過ぎるんですが。

ただ、良い吹き替えというのは、良い字幕を凌駕するものでもある。
吹き替えの方が多くの情報を伝えることができるため、もとのセリフに近いニュアンスを伝えることができるし、場合によっては、声優によって、より適切な演技が加わることがあるからだ。
例えば、戸田奈津子による字幕が批判された「ロード・オブ・ザ・リング」第一作については、より正確で、情報量が増えた吹き替え版が評価された。
自分自身、吹き替えっていいかも、と思う契機になった一作だ。

最近では、「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」の吹き替えが印象に残っている。前作でもそうなのだが、ベテラン声優陣の演技がものすごく良い。
レイアを演じた高島雅羅は、キャリー・フィッシャーのダミ声を一切無視して、お姫様声で演じていたが、これは、完全に正解だろうと思わずにはいられない。
また、ルークを演じた島田敏は、レイと出会った当初はいかにもな爺さん声なのだが、物語が進むにつれ、徐々に声が若々しくなっていく。そして、ある出来事を契機として、完全に以前のルークと変わらない声となり、最後の決戦に挑むこととなる。

これは、過去の事件により、すっかり世界に絶望しきっていたルークが、レイと出会うことにより、徐々に希望と、かつての自分を取り戻していく様子を表現しているのだと思う。
こうしたことができるのは、声色によって年齢を自由に変えることができる日本の声優ならではの技術であると言えるだろう。

スター・ウォーズ/最後のジェダイ」吹き替え版は、ルークのギャグがうまく活かせていない箇所が一点あったのが気に入らないのだが、それ以外は、字幕より遥かにできがよく、強くお勧めできる一作となっている。

こうした、出来の良い吹き替えが積極的に評価され、観客がたくさん観に行くようになれば、状況はだいぶ改善されるんじゃないかなと思うのだけれど。

大傑作に成り損ねた良作 「JUDGE EYES:死神の遺言」

本作は、「キムタクが如く」の愛称がつけられているように、木村拓哉が主演していることが大きな話題を呼んでいる。

nlab.itmedia.co.jp


確かに、ゲームを始めた頃は、カツラを「ちょ、待てよ!」と言いながら追いかけたり、風俗に行ってえらい目にあったりして、その操作キャラがキムタクである、というのはなかなか面白みがあった。

f:id:katin:20190104022951p:plain:w300
ゲーム内で、ちゃんと主人公(キムタク)も入れて写真をとれるようになっているのはさすが


ただ、自分がそれほど木村拓哉に思い入れが無いということもあるけれど、ゲームを進めれば進めるほど、実感したのは、むしろ、本作のストーリーと演出の素晴らしさだ。

本作では、メインストーリーが全13章で構成されているが、それぞれの章の終わらせ方が絶妙にうまい。大抵、章の最後は事件の思わぬ真相や、新しい展開が示され、一体これからどうなるんだ? という絶好のクリフハンガーとなっている。
ちなみに、各章の冒頭では最初にこれまでのあらすじが説明されるのだが、大抵は章の終わりの展開に衝撃を受けて、ただちに次の章を始めるため、「あらすじなんてとっくにわかっとるわ。さっさとゲームを進めろや」という気分になってしまう(もしかすると、ローディング時間を稼いでるのかも)。でも、こうした章で区切ったり、各章の冒頭にあらすじがあると、よく出来たテレビドラマを観ている気になってくる(内容的にはVシネだが)。

ストーリー自体は、主人公が手がけることになるヤクザの殺人事件と、そこに暗い影を落とす、過去の忌まわしき出来事という構成になっており、人物や時制がいりまじる複雑な展開になるわけだが、物語が適切に整理されているため、プレイしていてとまどうことがない。意外な人物の名が読み上げられた際に、
「一体誰だっけ?」となってしまうことはなくて、ちゃんと驚くことができる。

また、主人公だけではなくて、様々な個性的なキャラクターが登場するのも本作の特徴だ。
個人的には、ピエール瀧が演じる羽村のワルっぽさがすごくよかった。また、俳優がモデルではない、東徹というヤクザが出て来るのだが、自分が寄って立つ正義を探し求める彼の描写がとても良く出来ていた。本作の裏主人公と言って過言ではないだろう。


と、まあ、ストーリーはよく出来ているのだが、ただ、「よく出来ている」どまりの内容であるとも言える。
全体としてテーマ性が希薄で、エンディングを迎えると、何も残らないのだ。ここまでストーリーで魅せることができるのなら、もっとプレイヤーに考え込ませるような内容にしてほしかった。
例えば、本作では、医療サスペンスの側面があって、作中に出てくるとある病気についてかなり詳しく解説されているのだが、後半になると病気の取り扱い方が荒唐無稽になってしまっており、結局フィクションとしてしか楽しめない。
どうせなら、実際に本作で取り上げられている、病気の患者を作中に出したりするだけでも、臨場感が変わったのではないかと思う。
また、主人公は暗い過去を背負っているのだが、ストーリーの進行とともに自動的に解消されてしまう感があり、人間性を深めたり、なんらかの成長を促す要素になり切れていない。

ゲームシステムについては、いろいろ不満がある。
本作については、よく、尾行モード(相手の視界に入らないようにこっそりと尾行するモード)がつまらないと言われているが、はっきり言って、ありとあらゆるモードが繰り返しのプレイに耐えられないものばかりだ。
街のチンピラにふっかけられるバトルもダルい。お金を落としてくれるときはありがたいが、それも無いとただただ時間を無駄にした気分になってくる。やっかいなのは、一定時間がたつと京浜同盟の幹部(どっかの街からやってくるヤクザ)がそこら中で暴れ出すことで、それを収めるのにいちいち戦わなければならない状態になると、ダルさがさらに増すことになる。
街の評判をあげるためのミッションもめんどくさいし、彼女とデートするたびにやらなくてはならないゲームもつまらない。
ゲーム中盤(だいたいプレイ時間が15時間くらいに到達したころ)あたりから、メインストーリーを進めること以外の操作がどんどん苦痛になってくる。

これは、ひとつには、本作ではレベルの概念が薄いこともあるだろう。一応バトルに勝利したり、ストーリーを進めるとSpを獲得し、様々なスキルを獲得できるのだが、体力と攻撃力について3段階程度しか上がらないので、成長の感じが乏しい。全体的に、ユーザへ適切なタイミングで適切な達成感を与えることに失敗していると思う。
そういう意味では、尾行モードとかの方がまだストーリー性があって、バトルよりも面白いところがあった。また、鍵をこじ開けるところは、サムターン回しとかは正気とは思えない難易度で、さすがにこれはまずいと製作者が思ったのか、中盤以降は比較的簡単なピッキングばかりで、これはまあ、操作を盛り上げるという意味でよかったのではなかろうか。
調査アクション | JUDGE EYES:死神の遺言 | セガ公式サイト


また、UIが全体的にしょぼいのも気になるところだ。操作感そのものは悪くはないんだけれど、デザインは出来合いのアドベンチャーゲームライクで、いまいち没入感に乏しい。

f:id:katin:20190104023315p:plain:w300
いまいちなアイテム選択画面。デザインにもうひと工夫あってもよかったような


総論としては、ストーリーはすごく良くできていて、ゲーム自体も前半までは割と面白い。
ただ、後半はゲームのありとあらゆるところが徐々に作業と化してしまい、ダルくなる。ストーリーは最後まで楽しいが終わると何も残らない、という感じだろうか。

ストーリーがより良かったり、ゲーム自体がもっと楽しかったら、2018年を代表する作品になったのになあ、と思う。
本作は、神室町を舞台としたオープンワールドであると捉えることができるのだが、画面の端から端まで数分程度で到達できる程度の規模で、海外のAAA級ゲームと比べると、すさまじい狭さになっている。でも、実は密度が高ければ割と気にならないし、むしろ長所になりうるのではないか、ということがわかったのも収穫だった。

ということで、次回は是非、さらに上を目指した至高のゲームとしてほしいものだと思いました。

ryu-ga-gotoku.com

「シュガー・ラッシュ:オンライン」におけるインターネット描写

いよいよ日本でも公開され、それなりにヒットはしているが賛否両論らしい「シュガー・ラッシュ:オンライン」だが、主要な舞台になっているインターネットの描写について、ツッコミをいれているレビューがあった。

theriver.jp


内容を一言でまとめると、「本作のインターネット描写はミレニアル世代にとって古臭い」ということになるだろう。
ただ、指摘している点はあまり正しくないのでは? と思える箇所がいくつもある。

ということで、ここでは上記レビューにツッコミを入れるかたちで、「シュガー・ラッシュ:オンライン」はインターネットをどのように描こうとしたのかを書いていきたい。もちろんネタバレをしているが、物語の内容は極力触れないように注意しているつもりだ。

さて、上記レビューでは、「シュガー・ラッシュ:オンライン」について以下のような批判が書かれている。

  1. インターネットへの接続描写が古臭い。Wi-Fiの発音すら知らないキャラクターたちが、「電話回線の中をキャラクターが移動していくという古代的な手法」でインターネットへ接続する様子が描かれている。出てくる企業もeBayとかで古臭い
  2. インターネットに接続しているキャラクター(アバター)が画一的で受動的である。現在のインターネットはTikTokなど「一人ひとりがコンテンツの発信者になっている」のが特徴だが、こいつらはそんなことをせず、ただ「いいね」ボタンを押しているだけだ
  3. ポップアップ広告を出している不健康そうなキャラクター(JP・スパムリー)を出して、インターネット広告を不健全なものであるように描いている。広告はインターネットの発展に関わる大事なものだし、そもそも今ではポップアップ広告は推奨されていない
  4. 最近のWebサービスを支えるのはAIだが、劇中にはそれっぽい描写は見られない。全体的にこの製作者は前近代的な思想の持ち主なので、「もしも続編か何かが実現したとして、そこでAIがフォーカスされることがあれば、きっと暴走した人工知能をラルフとヴァネロペが食い止める物語になるのではないか。」
  5. 「インターネットは確かにとても便利だけど、悪意に満ちて危険な部分もあるから気をつけたいよね」といった固定観念を製作者たちが持っている。最近は、もっとインターネットをポジティブに扱った「ワンダー 君は太陽」とか「search/サーチ」といった映画がある。こういった内容をもっと見習うべきだ

上記のような批判について、私は、それぞれ的外れだったり間違ったりしている箇所が幾つもあると思っている。

1. インターネットへの接続する際の描写について

レビュー中では、「電話回線の中をキャラクターが移動していく」とだけ皮肉っぽく書かれているが、レビュー作者が故意に無視したか、それとも気づかなかったのかはわからないが、実はインターネットに接続するマシンは、ボンダイブルーiMac(多分初代iMac)なのである。つまり、本作の舞台は下手をすると2000年よりも前の可能性がある。だからこそ、キャラクターたちは電話線を使ってインターネットへ接続するし、目指すのはeBayということになる。でも当時は果たしてWi-Fiなんてあったろうか? あったかもしれないが、そこまで一般的ではなかったはずだ。では、GMailは? Twitterも作中に出てくるが、サービスがランチされたのはいつだったっけ?

……つまり、本作の製作者は、最新のインターネットを描こうとしているわけではないということだ。ここで描写されているインターネットというのは、具体的なある瞬間を切り取ったわけではなくて、過去から現在へ至るネット社会の歴史的な発展を俯瞰しており、普遍的な内容を描いていますよ、ということを時代性がバラバラのガジェットやサービスを並べることで観客へ示しているわけだ。

それから、インターネットの衝撃というか、まったく新しい世界の誕生という感動を一番味わったのは、電話線と超低速なモデムを使っていた最初期のユーザ達であるはずで、ヴァネロペとラルフがインターネットに出会ったときの様子をそうしたノスタルジックな感情に重ねようとした意図はあるんじゃないかとは思う。

とはいえ、本作におけるインターネットは懐古趣味に満ちているわけではなくて、ちゃんと現代のトレンドを抑えているものになっていると思うけれど。

2. 「一人ひとりがコンテンツの発信者になっている」ということ

まず、最初に言っておきたいのは、これはミレニアル世代に限らず昔からずっとそうだ。
TikTokに限らず、特別な芸能人やテレビ局じゃなくてもコンテンツを発信できることこそがインターネットの特徴そのものだ。
あと、インターネット上のキャラクターが画一的な顔つきをしているはパケットを擬人化しているのであり、別にアバターを表しているわけではない。まあ、いろんなキャラクターの顔を画一的にすることでアニメーターの負担を減らしているとも言えるわけだが。

また、本作ではラルフがいろんな動画を上げて「いいね」をかき集めているわけで、まさにこれこそが「一人ひとりがコンテンツの発信者になっている」ことを象徴している。もちろんラルフ以外の人たちも動画をあげて注目を集めているシーンもあり、様々な人たちがコンテンツの発信者になっていることを明示できていると言える。

3. インターネット広告を不健全なものであるように描いていること

本作ではインターネット広告は「良い広告」と「悪い広告」があることが描かれており、広告そのものについては、バランスを保った態度をとっている。
では、広告の良し悪しは何で決まっているのだろうか。本作における広告の善悪とは、広告する対象そのものだ。
例えば、卑しい身なりのスパムリーが何を広告していたかというと、オンラインゲームアイテムの売買(要するにRMT)だ。

逆に、ラルフがアップロードした動画をみんなに広めるための広告は、決して悪いものとしては描かれていない(ちょっとうざそうな印象を受けなくもないが、まあ、現実もそういうもんですよね)。また、こうした広告のおかげで「いいね」があつまり、お金になるんだということが作中で示されているわけで、本作はインターネットにおける広告の重要さをきちんと取り込めているといえるだろう。

ポップアップ広告については……そもそもことさらポップアップ広告という感じに描写されていたっけ(冒頭であった気がするが記憶が曖昧)? あったのなら、そこは観客にわかりやすいように描こうとしただけじゃない?
ちなみに、現実世界でもモバイル上からだと動画とかのポップアップ広告がまだあって、あれはほんとどうにかしてほしいですね。

4. 最近のWebサービスを支えるのはAIだが、劇中にはそれっぽい描写は見られない

いや、劇中で出てくる「イエス」がAIそのもでしょう。なお、「イエス」が暴走する描写は本作ではまったくありませんでしたー。

5. 「インターネットは確かにとても便利だけど、悪意に満ちて危険な部分もあるから気をつけたいよね」といった固定観念

いや、固定観念じゃなくて、事実でしょう。
なお、「ワンダー 君は太陽」は未見なのでよく知らないけれど、「search/サーチ」はまさに「インターネットは確かにとても便利だけど、悪意に満ちて危険な部分もあるから気をつけたいよね」という話そのもの内容だった。


全般として、「シュガー・ラッシュ:オンライン」はインターネットを研究して巧みに作中に取り込んでおり、その描写を古臭いものとするレビュー作者こそが固定観念に凝り固まっているのではないかと思う。ネット描写としては、「レディ・プレイヤー1」よりうまくやれているのではなかろうか。

この映画の欠点はそういう古臭さにはなくて、どちらかというと、ディズニー映画の限界に関わる部分だろう。つまり、エロを初めとした猥雑な描写がほぼすっぽりと抜け落ちているところだ(あやしげな広告のなかにそれっぽいのがちょっとあった気がするが)。
ヴァネロペがハマるモーターレースは、怪しげな雰囲気を漂わしており、清く正しく美しいところだけがインターネットの良いところじゃないよtumblrどうしちゃったの? みたいな感じの製作者の主張が見えなくもない。ただ、しょせんはディズニーで、下品だったりアングラっぽさみたいな雰囲気を出すところまで行っていない。本作のインターネットはポジティブすぎるのだ。

#シュガラお題

一周年を祝われる作品は幸せである

2016年11月26日、舞台挨拶を行った渕上舞は「声優人生で2度あるかどうか……」と述べたという。

この日は、劇場版ガルパン公開開始1周年であり、この映画の価値を飛躍的に高めた立川シネマシティでのことだった。
dengekionline.com


公開直後は、キャストやスタッフが表にでたり、大ヒット上映中みたいな広告が投下されるわけだが、1年という節目にキャストもかけつけて、公式で祝うというのは、なかなか無いことだと思う。

それは、長期にわたってファンに愛され、スタッフやキャストもまた作品を楽しみ、そして本来は絶対に予定されていないようなイベントを突発的に行えるだけの収入をゲットできた、真に成功した作品のみができる特権である。

そして、今回、ニーアオートマタもまた、そんな作品の仲間入りをしたのであった。
live.nicovideo.jp


しかも、1日以上ぶっ通しの生放送で、出演者は多種多彩。つまり、沢山の人がお祝いにかけつける公式1周年イベントを企画できるまでになったということだ。以前、もはや宣言費が枯渇したと曰った公式が、こんな素敵なことをしてくれるなんて。

ニーアオートマタについては、毀誉褒貶、色んな評価があり、実は自分もそこまで思い入れはなかったりするのだが、でも、このゲームが成功し、それを祝う人が沢山いた、ということは、本当に本当に良かったと思う。

あらためて、1周年おめでとうございます。

それから、ピアノアレンジアルバムのイラストが素晴らしくて、これはさすがに現物を買いたいかも。
www.square-enix.co.jp

終わりと始まりの物語ーー「ワンダーウーマン」

※この文章は、映画の結末に触れています



本作の主人公ダイアナは、彼女が暮らしていた島に漂着した男、トレバーの「悪いヤツを倒し、戦争を止めたい」というシンプルな主張を信じ込み、自らの故郷を後にして、第一次世界大戦真っ只中のロンドン、そしてベルギーへと向かう。

故郷を旅立つ際に、彼女の母ヒッポリタは、最愛の娘に向かって次のように告げる「この世界はあなたが救うに値しない」と(吹替版では、榊原良子が演じていて、説得力がさらに増す科白になっている)。

とはいえ、ダイアナは道中で意気揚々と、悪いヤツを倒せば世界は平和になるんでしょ。さっさとやっつけましょうよ、と言い放ち、各所で色々とトラブルを引き起こすこととなる。
そして、最終的には、世界はそんなに単純なものでは最早無くなってしまった、ということを思い知らされる。

つまり、「敵」と「味方」、「善」と「悪」を単純に分けることはできない。誰かを倒したとしても、戦争はこれからも続いていくであろう、ということだ。

こうして冒頭に紹介したヒッポリタの発言の真意がわかるわけだが、本作がDCEUのひとつであり、すなわちスーパーヒーローであるワンダーウーマンの物語であることを念頭に置くと、こう考えることもできるだろう――「スーパーヒーローが救える世界は第一次世界大戦時点で終わりを迎えていた」と。

この映画では、ふたつの観点から、上記のことが表現されている。

ひとつは、先に述べたとおり、第一次世界大戦は人類が起こした戦争であり、しかも単純にどちらか一方に善悪を付けられるものではないということ。

もうひとつは、人類は大量破壊兵器を開発するだけの力をもっており、もはやスーパーヒーローやスーバーヴィランの手を借りずとも、大きな力を行使できるということだ。
本作に出てくる天才科学者、ドクター・ポイズンは顔に傷を負った、か弱き女性であり、ワンダーウーマンの前に立てば、あっという間に捻り潰されてしまう程度の力しか持っていない。しかし、ひとたび彼女が作り出した毒ガスが撒き散らされれば、被害は尋常のものではなくなる。
そして、皮肉なことに、本作で最終的に彼女の毒ガス攻撃を止めたのは、人間なのだ。

映画的には収まりが悪いので、ワンダーウーマンは、なんだかよくわからない派手な戦闘を行うことになるわけだが、物語としては、人間の間で決着がついてしまっている。

例えスーパーヒーローでも世界を救うことはできない、そもそも救う価値があるかすらわからない、というのが本作が導き出した結論の一部である。

そして、これはDCEU共通のテーマになっているのではないか、とも思う。
「マン・オブ・スティール」や「バットマン VS スーパーマン」は、現代に神のような存在がやってきたらどうなるか、という物語だった。
スーサイド・スクワッド」は、人類がスーパーヒーローをなんとかして制御しようとする話であると言える。

こうした物語の背景にある世界は、人間が大量殺戮兵器をもとに、混迷の時代を築くにいたる第一次世界大戦から始まったと考えることができる。

そして、そんな人間と超越的な存在(スーパーヒーロー)は、どのように関わりを持つことになるか、という命題の出発点こそが、本作「ワンダーウーマン」であると言えるだろう。

愛はさだめ、さだめは死 〜NieR:Automataに寄せて

ゲームを小説等比べたときに、ひとつの特徴として、「死」が描きやすいということがある。

小説や映画などにおける「死」とはすなわち登場人物がいなくなることを意味する。ストーリーはシーケンシャルに続くため、一度死んだ登場人物は、二度と物語に登場しない。それでもなんとか復活させるためには、リアリティを消費してなんらかの理屈を捻り出さないといけない(あるいは、物語をループさせるとか)。

しかし、ゲームは違う。大抵のゲームは死の匂いと恐怖に満ちていて、大抵のプレイヤーキャラクターは何度も死(≒ゲームオーバー)を繰り返すことになる。ゲームをプレイするとは、死から逃れる選択肢を選ぶことだとも言える。

「NieR:Automata」はこうしたゲームにおける「死」をより拡張し、意識させる内容になっている。

ひとつは、ゲームシステムとして、プレイヤーキャラクターの死へのリスクを大きくしているということがある。

まず、近年のゲームとしては珍しくオートセーブが存在せず、プレイヤーは注意深く手動でセーブしなくてはいけない。
また、プレイヤーキャラクターが死ぬと、その場には義体とともに獲得したチップが取り残され、回収しないと回復することができない。回収する前に再度死んでしまうと、先に残されたチップは消滅し、戻って来ない。

これは、ダークソウル等と同じようなシステムだが、ダークソウル等では、回収する必要があるのは経験値で、獲得したアイテムはリスタートしても失われることはない(そして経験値は、割と回復しやすい仕様になっている)。
しかし、「NieR:Automata」におけるチップとはプレイヤーキャラクター強化の要であり、これを失うというのは、絶対に避けなければならないことだ。従って、死んだ後のリプレイ時には是が非でも義体を回収しなければならないし、それが駄目だったときは、セーブデータをロードしなくてはいけない(オートセーブを廃することで、こういう無茶なことができるということでもある)。

いかにお手軽にリスタートできるか、ということが評価軸のひとつになっている(ように思う)近年のゲームでは、珍しいほど死に対する恐怖感を抱かせるシステムになっている。

それから、物語に目を向けると、本作で出てくるのは敵も味方も人工物であり、本来は死とはあまり関係の無いはずのキャラクターばかりである、というのもなかなか面白い。

実際、主人公らアンドロイドたちの個体データはバックアップされており、義体が失われても容易に復元できる、という設定になっている。

だが、アンドロイドや、そして敵の機械知性体さえも、人間の文化を知り、それらを真似たり取り入れたりしていくことで、まるでそれが必然であるかのように、死の概念と対峙することになる。

例えば、ゲーム冒頭の2Bのセリフからも、アンドロイドにとっても死と再生は身近な存在となっていることが見て取れる。また、途中で出会う様々な機械知性体たちも、個々のキャラクターを獲得することで「死」に向き合うことになった者たちのエピソードが沢山出て来ることとなる。

そう、「NieR:Automata」を一通りプレイして思うことは、敵と味方の戦いそのものにはあまり意味が無くて、それぞれの立場で人間の文明をどう吸収し、死とどう向き合ったのか、ということがひたすら描かれていたのではないか、ということだ。機械知性体の名前に、哲学者が使われていることはその象徴とも言える。

そして、機械知性体とアンドロイドは、それぞれ死に対して最終的にどのような選択を取ったのか、ということがDエンドとEエンドで描かれることになる。

ちなみに、本作は、舞台となった年代から1万を引くと、どこかで見覚えのある年になっており、ある意味アンドロイドと機械知性体が人類の歴史を繰り返していると受け取ることもできる。

こうして考えてると、本作は、「死」という概念をキーにして、大きなリプレイ(人類の歴史・文化の再現)と、中規模なリプレイ(複数エンディング)、そして頻繁なリプレイ(ゲームオーバーからのリスタート)をプレイヤーに体験させるという、ゲームならではの仕組みを巧みに利用し、死と再生に正面から向き合った、稀有な作品であると言えるだろう。

シン・ゴジラの主役とは何か

山本弘が「シン・ゴジラ」の感想を書いていて、読んでみたのだが、ちょっと違和感があったので、そのあたりを書き出してみたい。

hirorin.otaden.jp

文章の前半については、なるほどとなあとは思う(過去作品へのオマージュとか、自衛隊の描写とか)。

ただ、後半部分に行くにつれ、首をひねる文章が出てくる。

まず、これまでの怪獣映画は

「人間ドラマの部分が、怪獣の大暴れするシーン(以下、便宜上、「怪獣ドラマ」と呼称する)と関係ないことが多い」

ことが問題だったとしている。

そして、

シン・ゴジラ』のいいところは、ゴジラの大暴れとその対策だけに絞りこんだこと。

であるとして、

「男女の愛とか、親子の愛とか、犯罪とか、社会批判とか、そんなものはこの映画に要らない。無駄な尺を取るだけだ。主役はゴジラ。それ以外の要素、つまり「人間ドラマ」はフレーバー。そう割り切って作られている。」

と評価している。

果たしてそうだろうか?

確かに、人間ドラマ=人情ドラマとすると、本作では人情は全くと言っていいほど描かれていない(実はそうでもなかったりするのだが)。
しかし、「人間」自体は沢山出演していて、ゴジラよりも人間たちが会議しているシーンの方が、圧倒的に時間をかけて描写されている。

もっと言うと、本作のゴジラは、別に直接的に描写しなくてもよい存在である。仮に、ゴジラについては出番をけずって、官僚の報告や報道によるセリフにとどめたとしても、話として十分成り立つ映画になっている。
これは、物語の主題が、ゴジラそのものではなく、ゴジラが襲来した日本(の政府組織)にあるからだ。

ちなみに、本作におけるゴジラの放射火炎がすさまじいものであったのは、そうでもしないとゴジラ自身の存在感が無くなってしまうからだと思う。もし、2014年のハリウッド版ゴジラのようにしょぼい放射火炎だったとしたら、多分「ゴジラとしては第2形態〜第3形態の頃のほうが見どころがあったね」と言われていたであろう。
それでも、結局は「内閣総辞職ビーム」と人間サイドの見立てで呼ばれてしまうあたりが、本作のすごいところであるわけだが。

つまり、シン・ゴジラでは、主役は人間(あるいは日本という国家)であり、ゴジラというキャラクター自体はフレーバーに過ぎないのではないか。
そして、だからこそ、人間ドラマが怪獣ドラマと乖離していなかったと言える。そもそも、本作では人間ドラマ自体が主体であるからだ。

それから、政治性を帯びた解釈をシン・ゴジラに持ち込むことを嫌がっているようだが、国家が主要な舞台になっている以上、そこになんらかの思想を読み取ろうとしたり、忖度しようとしてしまうのはしょうがないんじゃないかと思う。

最後にもうひとつ。この脚本について、当初物言いがついたときに、是非そのまま押し通せと庵野秀明に助言したのが樋口真嗣であったという。また、彼は監督して本作に関わった重要スタッフの一人であり、本作における魅力をつくりあげた功労者の一人である。そいう人物をわざわざ文中で腐すのはどうなの、とも思った。