2019年のマトリックス

9月6日より、制作20周年記念として、2週間限定で「マトリックス」の4DX上映が行われている。


映画『マトリックス』製作20周年特別予告 2019年9月6日(金)期間限定上映


20周年……。もうそんなに経つのかあ、という感慨があるわけだが、4作目も制作が決定したとのことで、これからもコンテンツとしてはまだ生き続けていくのだろう。

ただ、一作目を今後スクリーンで観られる機会はそうそうない。
また、「マトリックス」については公開後様々なフォロワー/オマージュ/パロディーが乱立し、作品として消費し尽くされた感があった。しかし、これだけ時間が経てば、あらためて新鮮な気持ちでこの映画を楽しめるかもしれないと思い、観ることにしてみた。

結果、やっぱり面白い! キアヌ若々しい!!(今も若いとの声もあるけど、なんだかんだ貫禄が出ちゃっており、この当時の若造っぽさとはちょっと違う)、キャリー=アン・モス美しい!!!

そして何よりも、映像がめちゃくちゃスタイリッシュでよい。

主人公はソフトウェア会社勤務でハッカーという設定だが、20年前ということで、各種IT機器は大分古めかしい。モニターは液晶ではないし、スマホなぞは影も形もない。
でも、シーンの見せ方がうまいため、こうした古いガジェットがあまり気にならない。なんだかんだいって、NOKIAのケータイはかっこいいし、黒電話やちょっと古ぼけたソファーみたいな家具を全面に出すことで、時代による経年劣化を防ぐことができている。
そこに、さらっと映画の元ネタとなった本が映り込んだり、「これは何かのメタファーですよ!」と言わんばかりの構図があったり、様々な作品のオマージュがあったりと、情報がたっぷりと盛り込まれていたりする。監督の趣味が内容に露骨に出ていて、それを隠そうともしないのが大変よい。

登場人物が金髪碧眼の典型的な白人俳優ではなく、様々な人種で構成されているのは、現在に通じるところだ。
さらには、女性がアクションし、なおかつそれがスクリーンに映えるように演出されている、というのもこの映画の特徴だろう。ハリウッド映画において、女性による美しいアクションを見せ場にするというのは、実質的に「マトリックス」から始まったと言っていいんじゃないかと思う。

ストーリーの進め方もうまい。

最初にバレットタイム混じりのアクションで観客の心を掴み、主人公ネオの登場から、怖るべき敵、世界の秘密といった要素がテンポよく展開する。また、ネオ(NEO)こそが救世主(The one)であると告げられるが、預言者を通して、果たしてそれが本当なのか、とドキドキさせるのもうまい。

誰もが見慣れたビル街から、突如おぞましい人間が家畜化された世界や、崩壊した地球の様子が描かれ、さらに、仮想空間上の古寺にてカンフーの特訓シーンまで出てくるという畳み掛けかたもすごい。



ただ、物語が中盤から終盤に差し掛かるところで、雲行きが徐々に怪しくなる。
主人公の導師であるモーフィアスは、ネオにこのようなことを語りかける。「マトリックスの世界にいるひとたちは、マトリックスに囚われており、すなわち、敵だ」と。

これは、公開当時から批判を浴びていた箇所ではあるが、改めて見直すと、テロリストの論理だよなあと思ってしまう。

ネオとトリニティは、この言葉に導かれるかのように、銃をとり、殺戮を繰り広げる。

二人は、囚われたモーフィアスを救出するため近くのビルに押し入り、警備員と銃撃戦を繰り広げ、全員を殺す。
このシーンは、銃撃による過剰な演出(と、攻殻機動隊へのオマージュ)が話題になったわけだが、しかし、世界各地で銃撃事件が起きている今となっては、複雑な感情が湧き上がってきてしまう。
この映画の公開後に起きた、コロンバイン銃撃事件では、本作の影響が指摘されたこともあった。そして、現実と繋がりに苦しんだ人たちが武器をとり、一般市民を無差別に殺害する事件は、あれから幾つも増えた。
マトリックスがこのような事件に対して責任を負う必要は無いとは思うが、虚しくも悲惨な行為を無邪気に演出してしまったのは、作品の瑕疵ではあるように思う。

ネオとトリニティは、銃撃戦の後に、エレベーターに爆弾をしかけ、ビルのフロアまるごとを火の海にする。このくだりは爽快感のあるシーンとして演出され、当時の観客も快哉を叫んだものだが、2019年夏に日本で観ると、大変複雑な感情を覚える箇所になってしまっている。

また、現実世界に目覚めたことを後悔し、マトリックスに戻りたいと願うキャラクターとして、サイファーが出てくるが、公開当時は「気持ちはわからないでもないが、偽の世界で家畜化されるなら、厳しくも真実の世界にいたほうがいいよね」と皆が思っていたはずだ。
でも、VR技術が発達し、「レディ・プレイヤー・ワン」といった作品が公開されている今となっては、この二項対立自体に意味があるのか、と思えてくる。そもそも、マトリックスの世界ってそんなに悪いものなのか? とも。

マトリックス VS 現実の人間たち(ザイオン)の戦いは、2作目(「マトリックス リローデッド」)、3作目(「マトリックス レボリューションズ」)で語られるわけだが、上記のようなテーマをどこまで描かけているかはもうあんまり覚えていない。自分の微かな記憶では、内容的には権力論みたいなもので、ちょっと肩透かしをくらった記憶がある。

マトリックス」は、現在の最新の超大作と並べてもなんら見劣りしないビジュアルセンス、そして設定の妙がある傑作ではある。でも、マトリックスという世界そのものの定義については、当時と現在とではちょっと違っているように思うし、現実の世界はより厳しさを増している。

そいうい意味で、本作の続編を再び作る意味はあると思う。ウォシャウスキー姉妹の今後に期待したい。

ちなみに、4DXとしては、せいぜい雨のシーンがよりリアルになったくらいで、それ以外の効果はあんまり感じなかった。まあ、スクリーンで観られることに意義がある、ということで。