終わりと始まりの物語ーー「ワンダーウーマン」

※この文章は、映画の結末に触れています



本作の主人公ダイアナは、彼女が暮らしていた島に漂着した男、トレバーの「悪いヤツを倒し、戦争を止めたい」というシンプルな主張を信じ込み、自らの故郷を後にして、第一次世界大戦真っ只中のロンドン、そしてベルギーへと向かう。

故郷を旅立つ際に、彼女の母ヒッポリタは、最愛の娘に向かって次のように告げる「この世界はあなたが救うに値しない」と(吹替版では、榊原良子が演じていて、説得力がさらに増す科白になっている)。

とはいえ、ダイアナは道中で意気揚々と、悪いヤツを倒せば世界は平和になるんでしょ。さっさとやっつけましょうよ、と言い放ち、各所で色々とトラブルを引き起こすこととなる。
そして、最終的には、世界はそんなに単純なものでは最早無くなってしまった、ということを思い知らされる。

つまり、「敵」と「味方」、「善」と「悪」を単純に分けることはできない。誰かを倒したとしても、戦争はこれからも続いていくであろう、ということだ。

こうして冒頭に紹介したヒッポリタの発言の真意がわかるわけだが、本作がDCEUのひとつであり、すなわちスーパーヒーローであるワンダーウーマンの物語であることを念頭に置くと、こう考えることもできるだろう――「スーパーヒーローが救える世界は第一次世界大戦時点で終わりを迎えていた」と。

この映画では、ふたつの観点から、上記のことが表現されている。

ひとつは、先に述べたとおり、第一次世界大戦は人類が起こした戦争であり、しかも単純にどちらか一方に善悪を付けられるものではないということ。

もうひとつは、人類は大量破壊兵器を開発するだけの力をもっており、もはやスーパーヒーローやスーバーヴィランの手を借りずとも、大きな力を行使できるということだ。
本作に出てくる天才科学者、ドクター・ポイズンは顔に傷を負った、か弱き女性であり、ワンダーウーマンの前に立てば、あっという間に捻り潰されてしまう程度の力しか持っていない。しかし、ひとたび彼女が作り出した毒ガスが撒き散らされれば、被害は尋常のものではなくなる。
そして、皮肉なことに、本作で最終的に彼女の毒ガス攻撃を止めたのは、人間なのだ。

映画的には収まりが悪いので、ワンダーウーマンは、なんだかよくわからない派手な戦闘を行うことになるわけだが、物語としては、人間の間で決着がついてしまっている。

例えスーパーヒーローでも世界を救うことはできない、そもそも救う価値があるかすらわからない、というのが本作が導き出した結論の一部である。

そして、これはDCEU共通のテーマになっているのではないか、とも思う。
「マン・オブ・スティール」や「バットマン VS スーパーマン」は、現代に神のような存在がやってきたらどうなるか、という物語だった。
スーサイド・スクワッド」は、人類がスーパーヒーローをなんとかして制御しようとする話であると言える。

こうした物語の背景にある世界は、人間が大量殺戮兵器をもとに、混迷の時代を築くにいたる第一次世界大戦から始まったと考えることができる。

そして、そんな人間と超越的な存在(スーパーヒーロー)は、どのように関わりを持つことになるか、という命題の出発点こそが、本作「ワンダーウーマン」であると言えるだろう。