シン・ゴジラの主役とは何か

山本弘が「シン・ゴジラ」の感想を書いていて、読んでみたのだが、ちょっと違和感があったので、そのあたりを書き出してみたい。

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文章の前半については、なるほどとなあとは思う(過去作品へのオマージュとか、自衛隊の描写とか)。

ただ、後半部分に行くにつれ、首をひねる文章が出てくる。

まず、これまでの怪獣映画は

「人間ドラマの部分が、怪獣の大暴れするシーン(以下、便宜上、「怪獣ドラマ」と呼称する)と関係ないことが多い」

ことが問題だったとしている。

そして、

シン・ゴジラ』のいいところは、ゴジラの大暴れとその対策だけに絞りこんだこと。

であるとして、

「男女の愛とか、親子の愛とか、犯罪とか、社会批判とか、そんなものはこの映画に要らない。無駄な尺を取るだけだ。主役はゴジラ。それ以外の要素、つまり「人間ドラマ」はフレーバー。そう割り切って作られている。」

と評価している。

果たしてそうだろうか?

確かに、人間ドラマ=人情ドラマとすると、本作では人情は全くと言っていいほど描かれていない(実はそうでもなかったりするのだが)。
しかし、「人間」自体は沢山出演していて、ゴジラよりも人間たちが会議しているシーンの方が、圧倒的に時間をかけて描写されている。

もっと言うと、本作のゴジラは、別に直接的に描写しなくてもよい存在である。仮に、ゴジラについては出番をけずって、官僚の報告や報道によるセリフにとどめたとしても、話として十分成り立つ映画になっている。
これは、物語の主題が、ゴジラそのものではなく、ゴジラが襲来した日本(の政府組織)にあるからだ。

ちなみに、本作におけるゴジラの放射火炎がすさまじいものであったのは、そうでもしないとゴジラ自身の存在感が無くなってしまうからだと思う。もし、2014年のハリウッド版ゴジラのようにしょぼい放射火炎だったとしたら、多分「ゴジラとしては第2形態〜第3形態の頃のほうが見どころがあったね」と言われていたであろう。
それでも、結局は「内閣総辞職ビーム」と人間サイドの見立てで呼ばれてしまうあたりが、本作のすごいところであるわけだが。

つまり、シン・ゴジラでは、主役は人間(あるいは日本という国家)であり、ゴジラというキャラクター自体はフレーバーに過ぎないのではないか。
そして、だからこそ、人間ドラマが怪獣ドラマと乖離していなかったと言える。そもそも、本作では人間ドラマ自体が主体であるからだ。

それから、政治性を帯びた解釈をシン・ゴジラに持ち込むことを嫌がっているようだが、国家が主要な舞台になっている以上、そこになんらかの思想を読み取ろうとしたり、忖度しようとしてしまうのはしょうがないんじゃないかと思う。

最後にもうひとつ。この脚本について、当初物言いがついたときに、是非そのまま押し通せと庵野秀明に助言したのが樋口真嗣であったという。また、彼は監督して本作に関わった重要スタッフの一人であり、本作における魅力をつくりあげた功労者の一人である。そいう人物をわざわざ文中で腐すのはどうなの、とも思った。