愛はさだめ、さだめは死 〜NieR:Automataに寄せて

ゲームを小説等比べたときに、ひとつの特徴として、「死」が描きやすいということがある。

小説や映画などにおける「死」とはすなわち登場人物がいなくなることを意味する。ストーリーはシーケンシャルに続くため、一度死んだ登場人物は、二度と物語に登場しない。それでもなんとか復活させるためには、リアリティを消費してなんらかの理屈を捻り出さないといけない(あるいは、物語をループさせるとか)。

しかし、ゲームは違う。大抵のゲームは死の匂いと恐怖に満ちていて、大抵のプレイヤーキャラクターは何度も死(≒ゲームオーバー)を繰り返すことになる。ゲームをプレイするとは、死から逃れる選択肢を選ぶことだとも言える。

「NieR:Automata」はこうしたゲームにおける「死」をより拡張し、意識させる内容になっている。

ひとつは、ゲームシステムとして、プレイヤーキャラクターの死へのリスクを大きくしているということがある。

まず、近年のゲームとしては珍しくオートセーブが存在せず、プレイヤーは注意深く手動でセーブしなくてはいけない。
また、プレイヤーキャラクターが死ぬと、その場には義体とともに獲得したチップが取り残され、回収しないと回復することができない。回収する前に再度死んでしまうと、先に残されたチップは消滅し、戻って来ない。

これは、ダークソウル等と同じようなシステムだが、ダークソウル等では、回収する必要があるのは経験値で、獲得したアイテムはリスタートしても失われることはない(そして経験値は、割と回復しやすい仕様になっている)。
しかし、「NieR:Automata」におけるチップとはプレイヤーキャラクター強化の要であり、これを失うというのは、絶対に避けなければならないことだ。従って、死んだ後のリプレイ時には是が非でも義体を回収しなければならないし、それが駄目だったときは、セーブデータをロードしなくてはいけない(オートセーブを廃することで、こういう無茶なことができるということでもある)。

いかにお手軽にリスタートできるか、ということが評価軸のひとつになっている(ように思う)近年のゲームでは、珍しいほど死に対する恐怖感を抱かせるシステムになっている。

それから、物語に目を向けると、本作で出てくるのは敵も味方も人工物であり、本来は死とはあまり関係の無いはずのキャラクターばかりである、というのもなかなか面白い。

実際、主人公らアンドロイドたちの個体データはバックアップされており、義体が失われても容易に復元できる、という設定になっている。

だが、アンドロイドや、そして敵の機械知性体さえも、人間の文化を知り、それらを真似たり取り入れたりしていくことで、まるでそれが必然であるかのように、死の概念と対峙することになる。

例えば、ゲーム冒頭の2Bのセリフからも、アンドロイドにとっても死と再生は身近な存在となっていることが見て取れる。また、途中で出会う様々な機械知性体たちも、個々のキャラクターを獲得することで「死」に向き合うことになった者たちのエピソードが沢山出て来ることとなる。

そう、「NieR:Automata」を一通りプレイして思うことは、敵と味方の戦いそのものにはあまり意味が無くて、それぞれの立場で人間の文明をどう吸収し、死とどう向き合ったのか、ということがひたすら描かれていたのではないか、ということだ。機械知性体の名前に、哲学者が使われていることはその象徴とも言える。

そして、機械知性体とアンドロイドは、それぞれ死に対して最終的にどのような選択を取ったのか、ということがDエンドとEエンドで描かれることになる。

ちなみに、本作は、舞台となった年代から1万を引くと、どこかで見覚えのある年になっており、ある意味アンドロイドと機械知性体が人類の歴史を繰り返していると受け取ることもできる。

こうして考えてると、本作は、「死」という概念をキーにして、大きなリプレイ(人類の歴史・文化の再現)と、中規模なリプレイ(複数エンディング)、そして頻繁なリプレイ(ゲームオーバーからのリスタート)をプレイヤーに体験させるという、ゲームならではの仕組みを巧みに利用し、死と再生に正面から向き合った、稀有な作品であると言えるだろう。